ある日、賢者たちは「人間は利己的に行動する動物である。利己的過ぎると他者への侵害になってしまう。」ということに気づき、「法律(或いは村社会のルール)」というものを作り上げた。しかし、この目に見えない縛りは100%機能しているとは言えない。もし一日を無法日に設定したら、この一日、どんなことが起きるだろう。それを想像してみると、「法律」というものは空気のような存在だが、不可欠な存在と言える。
しかし、「法律」のない動物社会は何を持って規制されているのか。動物も基本的に利己的である。種によって「寄生」、「共生」も見られるが、「弱肉強食」は普遍的なルールである。ところが、同種の中では利他的な行動をする動物も存在する。蜂はその一例であろう。群れが敵に攻撃されると敵を刺すことによって敵を撃退する。刺した蜂は命を失うが、他の蜂はその蜂の利他的な行動によって生き延びることができる。結果的に種全体は命を継続できるのだが、個々の蜂にとって利己的な結果だとは言えないのではないだろうか?
蜂に学べとはナンセンスである。人間には「法律」の社会がある。人間の利他的な行動は他の動物のものと区別しなくてはいけない。しかしながら、個々が利己的に考え過度な競争に走れば、最終的に行き場を失う結果に成りかねない。如何に良性的な競争をしながら、共に生きる社会を目指すかは難しい課題である。個々の認識及び努力から始めるしかない。
(上海日本語コミュニティ情報誌『MARCO』2012年9月号掲載 / 筆者:王麗敏弁護士)
しかし、「法律」のない動物社会は何を持って規制されているのか。動物も基本的に利己的である。種によって「寄生」、「共生」も見られるが、「弱肉強食」は普遍的なルールである。ところが、同種の中では利他的な行動をする動物も存在する。蜂はその一例であろう。群れが敵に攻撃されると敵を刺すことによって敵を撃退する。刺した蜂は命を失うが、他の蜂はその蜂の利他的な行動によって生き延びることができる。結果的に種全体は命を継続できるのだが、個々の蜂にとって利己的な結果だとは言えないのではないだろうか?
蜂に学べとはナンセンスである。人間には「法律」の社会がある。人間の利他的な行動は他の動物のものと区別しなくてはいけない。しかしながら、個々が利己的に考え過度な競争に走れば、最終的に行き場を失う結果に成りかねない。如何に良性的な競争をしながら、共に生きる社会を目指すかは難しい課題である。個々の認識及び努力から始めるしかない。
(上海日本語コミュニティ情報誌『MARCO』2012年9月号掲載 / 筆者:王麗敏弁護士)